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人はそれを体たらくという

2009/06/26 23:47
「普通の暮らしを得るために、普通の人はどれだけ苦労してると思ってんだ」

前に、そんな内容の日記を何かで読んで、ああ、そうなのか、と思ったことがある。

それは私を安堵させ、それなら私も苦労してしかるべきだな、と思ったけれど、やはり、毎日をこなしている人と毎日をうやむやにしている人では安定感が違うと思う。

私には、判断を鈍らせる、ということが出来る。
それは主に深刻でない物事に対して起こる。
面倒なものを目の前にすると、それは「絶」のように存在を曖昧にする。

例えば、向かい側からきたホームレスをぎりぎりでかわすように、受け止めることもなく、見過ごすこともなく、ただやり過ごすことができる。とても自然に。

子供の頃はそれでよかった。責任がないから。
でも今は違う。例え些細なことでも誠実に確実に判断を下さなければならない。
特に私のような、判断を鈍らせることが習慣になってしまった人間は、日々訓練をして自分に修正を加えていかなければならない。
はじめは恐らく意図的にやっていたと思うのだけど、最近は寧ろその鈍さを解除するのが困難になっていると思う。
使うのをやめてから、脳そのものが鈍ってしまったのかもしれない。
いつか、これが何かの引き金になるのではないかと、今はそれが怖い。

現実を受け入れられる人と受け入れられない人の格差は個人が努力しない限り一生埋まらないのだ。
私は上の方で人と同じであることに安堵したけれども、そういうものは大概気休めなのだと私は堅く信じている。が、前向きになるものについて、行動を促進させるものについての気休めは甘んじて受けるのが吉だと思う。
でもそうではない、不安を伴うことに関して、人と同じであることの安堵はとても危険なもののように思う。

問題や不安をシェアできる人数が多いからといって、それは必ずしも安全ではない。
今だって大勢の人が不景気の中にいるけども、その中の人々は必ずしも安全ではないだろう。

この世に神様でもいない限り、いや、神様がいたとしても自分自身に未来を知る術がない限り、着実性や予防対策というのは、なんだか不毛なことのように思う。
けれど、不安になるフラグを毎日解除していくことは、生きるために必要な気休めになる。

或いはそれが発達すれば自信になるかもしれないし、生きやすくなるための代償だと考えれば、決して高くない。
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